5.7.5.7.7


短歌である。

数週間前、突然ひとつの短歌が浮かんできた。


何の内容だったのかはすでに忘れてしまったが、そのときの気持ちを歌ったものであったことは確かだ。


眠っている最中に突然具合が異常になり、目が覚める。

薬害でぶっ倒れる以前はこんなことはなかったのだが、ぐっすり眠っている最中にも、脈拍と血圧が異常になって目が覚めるようになった。(2回目に発作が起きて救急車に乗った424日以来、1ヶ月ちょっとこれを日中だろうが夜中だろうがしばしばのしばしぐらい?繰り返しているのだが、非常に「変な感じ」である。)

あまりに変な体調でどうしても眠れなくなり、夜散歩徘徊することがあるのだが(まるでカフェイン剤がぶ飲みした後みたいな感じ?血圧が上がりすぎて落ちない。)、短歌がふと心に訪れたのはそんな夜のことだった。


宮沢賢治が好きで、しばし彼のことを考えていたことなどが背景にあって、宮沢賢治モードに脳みそがなっていたのかもしれない。

そのとき、短歌もいいよなあ…と感じた。


それがあってからなのだが、どうやら短歌が今の私のシンクロの流れになっているらしく、ふとTVのチャンネルを切り替えると、短歌関係の教育テレビ番組に行き当たったり、つい先日はNHKでケータイ短歌の話の番組に行き当たったりしている。(夜中のNHKの番組は秀作多し!)

また、哲学、文学にまた目が向いている。

思考公害がたくさんありすぎる(私には、だが)日本に長く居れば居るほど、チャネリングのためのエネルギー的余裕が狭まれて行く体験をするのだが、逆にその他の精神的な側面が研ぎ澄まされるようだ。

短歌はインスピレーションというより、精神的思考から出てくる側面が多いなと感じている。

(インスピレーションを表現していくには、詩が手っ取り早いんじゃないかと思う。)


短歌は思いを31文字の中に封じ込めることをするが、そのプロセスにはたぶん二つの流れがあるのだ。

ひとつは日本語ではあまり韻を踏むことをしないが、逆にリフの長さでリズムでとっていくことを特徴としている。だから、音楽的な乗り易さのような、感覚的な方向からの自然発生するものが素地になっている。

ふたつめは、それだけでは意味を成さなくなる場合もあるので、うまく内容や心情を引き出すための言葉の選択という工夫、つまり精神的に付け加えられていくフレーバーがあるんじゃないかと思っている。


私は文学者ではないので、それが当たっているかどうかは分からない。

でも、今、一人で静かに短歌ブームなのかも…と、死にそうな体験をしてより「幻影としての現実世界」への愛情や、肉体という限界を持つ人間として感じることが研ぎ澄まされた分の表現の放出が、インスピレーションを受け取りがたい状態であるがゆえに出てきていると感じるのだ。


人間は面白いものである。

そういえば、出口さんちの○さぶろうさんも、信じられないぐらいの唄を読んだっけ。(彼のオヤジギャグのくだらなさとか、実は俗物的~とも思うけど、けっこう気に入っているのだ。もっとも彼が生きている間に出会っていたりしたら、きっとかなり近親憎悪みたいなの感じたかも;;;


眠る間に 死に掛けた後 起き出して 人気のない道 一人ぶらつく